入江ノムコウ あの頃の未来に
カラオケは好きだが、最近はあまり行かない。模合仲間と年に1,2回といったところか。それも同級生のスナックでのカラオケなので、ほかの客の目・耳を気にして、気兼ねなくとはいかない。やはりカラオケは個室にかぎる。それも順番までイライラと待つことのない少人数がベターだ。一人カラオケの勇気は持ち合わせていないし、自らの美声を聞いてもらいたいというスケベ心もあるにはある。ゲーム機を用いた、家庭用カラオケは通信機能を活用したもので、業務用と遜色のない曲数とジャンルの豊富さで、導入はしてみたものの、いかんせん、一人で歌うことのむなしさには勝てず、現在は全く使用していない。細君はカラオケには無関心で、すでに成人した子供たちは通称“オール”(オールナイトの略?)と呼ばれる夜通しのカラオケボックスで仲間と歌いまくり、家庭では歌うことはない。数度“家カラ”に誘ってはみたのだがなしのつぶてである。カラオケでの私のレパートリーのひとつに、スガシカオの「夜空ノムコウ」という曲がある。名曲である。「あの頃の未来に、僕らは立っているのかな?」というフレーズに、歌うたびに心が波たつ。あの頃が、どの頃かによって答えは変わってくるだろうが、、、、。
今年の大学の新入局員の歓迎会でも、臨床整形外科医会の会長として、挨拶をさせられた。昨年は会場に入場するや否や事前の了承もなく、「先生、挨拶お願いします」と言ってきたので、大いに焦ったのであるが、私の「もっと早く言ってよ〜」という苦言が功を奏したのだろう。今年は1か月も前から連絡があった。考える時間があると、それはそれで厄介なものだ。用意周到の挨拶がその程度?といわれるのも悔しいので、熟慮を重ね、練りに練った。「洗練さと気品を兼ね備えた素晴らしい挨拶になった。」と当日酔っぱらって帰宅した時に、私が細君に自慢したという。以下挨拶の概要を述べる。酔っぱらいの戯言か否かは、諸兄の判断に委ねるとしよう。
“みる”には、“見る”と“診る”の2つがあります。晴れて入局された諸君が、研修医の駆け出しの頃は、指導医の後ろに立って、患者様を“見る”だけでしたでしょう。しかし、先輩の診療を間近に見、また自分なりに勉強もして、“見る”から“診る”へと変わってきたと思います。研修を修了され、“診る”力に少し自信もでてきたのではないでしょうか? ある時、一人の精神科医が話の中でこう言いました。「患者様を診てばかりいると、見るという視点を見失ってしまう。」彼が言うには、患者様の家族や、他の医療スタッフが、患者様を“見る”視点の中に、いま、患者様が何に困っていて、何を望んでいるのかが見えるときがある。それが患者様を本当に理解する大きな助けになる。私はなるほどと大きく頷きました。確かに、医学的知識に縛られて、見過ごしてしまう情報は少なくないでしょう。医師としてのスタートラインに立ったあなた方は、“見る”力はここにいる先輩医師よりも高いはずです。だからこそ、“診る”技術にだけ囚われず、“見る”ことの大切さも肝に銘じて欲しいものです。一方、大学等で臨床的研究をする場合は、感情に左右されない客観的で統計学的な“観る”という視点も重要となってきます。“みる”にはもうひとつ大切な漢字があります。それは看る“です。看護師の“看”、終末期医療の看取りもこの字を書きます。治療の対象としてだけではなく、医師と患者という立場を超えて、相手をいたわり慈しむ中で、自然に表出される“看る”という視点。“診る”と“看る”の間には、乖離や齟齬が生じることはままあることです。そんな時は、ここにいる諸先輩方に相談してください。きっと大切なアドバイスがいただけるものと思います。
さて、新入局員の皆様は、一人前の医師として一艘の小舟に乗り、2本の櫂で漕ぎ出しました。大海原を目指し、そしてそれを乗り越えて、寄港すべきいくつもの港があなたを待っています。前途は洋々ですが、今はまだ波静かな入り江の中にいます。2本の櫂はいつかプロペラになり、ジェット推進機になるかもしれません。でも、“見る”、“診る”、“観る”、“看る”の違いも判然としない、若い今だからこそ、いくら漕いでもなかなか前に進まないもどかしさを、そして両の腕(かいな)に残る充実した疲労感を忘れないでください。それが将来を築く糧となり、入江の向こうにいる未来のあなたの財産になるのですから。ご清聴ありがとうございました。
真剣に話を聞いている新入局員の顔がまぶしい。ふと気づくと、自分も彼らとともに入り江の中で小舟を漕いでいる。未熟が故のもどかしさも、心地よい疲労感も遠い過去のものだと思っていたのだが、自らの言葉に自分自身が揺り動かされている。「あの頃に未来に、私は立っているのだろうか?」。答えが出せないのは分かっている。でも自問せずにはいられない春の宵であった。
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